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「不可能物体の数理」
まえがき詳細目次


まえがき

 不可能物体とは,一見すると立体が描かれているように感じるが実は立体を表していない絵を見たとき,心の中に人が思い浮かべる“立体の印象”のことである.錯視図形,変則図形,だまし絵などとよばれることもある.オランダの画家エッシャーがその作品の中で好んで用いた題材としても有名である.本書ではこの不可能物体を描いた絵を数理的な立場から眺める.したがって,心理学的側面や芸術的側面は扱わない.不可能物体が不可能である数理的な理由を明らかにし,不可能物体を分類・体系化することが本書の目的である.

 不可能物体という題材をこのような立場から眺め,そしてまとめてみる気になったのは次のような事情による.筆者は1970年代の中頃に国立の研究所の一員として,当時通産省が推進していたパターン情報処理システム大型研究プロジェクトに参加し,物体認識の研究を行った.そこで2次元平面に描かれた図から3次元の立体構造を自動抽出する研究に没頭したのであるが,そのとき自動抽出を阻む障害として研究の前に大きく立ちはだかったのが,一連の不可能物体の絵だったのである.与えられた図が正しく立体を表すことが保証されていれば,その立体をコンピュータを使って取り出すことはそれほど難しくはない.しかし,ロボットの目で肥えた外界の画像には雑音が含まれるため,その中から立体を表さないものをふるい落とすことが重要な課題だったのである.

 幸いこの問題に対しては一応の解決策を見い出すことができ,研究にも区切りをつけたのであるが,これを通して立体の絵について多くのことを学んだ.ひと言で不可能物体とよばれているものも,不可能である理由を数理的に眺めればいろいろな種類に分けられること,人の目には明らかに立体を表しているように見えるのに実は表していない絵があったり,逆に立体としてはとても作れそうにないのに実はできてしまう絵があったりすること,コンピュータで正確に計算して作った絵ですらも嘘の絵になってしまう危険性があること(まさかと思われる方は6章をご覧いただきたい),等々である.これらを何らかの形に整理してみたいと長い間思い続けてきたのであるが,ようやくこのような形にまとめに至ったしだいである.

 本書では,与えられた絵が平面だけで囲まれた“多面体”とよばれる立体を表しているものと想定し,それ以外には何も先入観をもたないで―すなわちコンピュータのプログラムとしても書ける数理的な処理だけに頼って―絵から立体の情報を取り出そうとしたとき何が起こるかを,一歩一歩ゆっくり眺めていく.この道程のいろいろな段階で矛盾が含まれていることが明らかになった絵が脱落していくのであるが,それによって不可能物体が不可能である理由がおのずと分類され整理されていく.時には,脱落するはずがないと思われるような絵までが矛盾を含むことがわかってふるい落とされる場面に出くわし,人間の知覚の鈍感さを再認識させられるであろう.また,柔軟さとは無縁と思われがちな数理的手法をさらに推し進めることによってふるい落とされるべきでなかった絵を復活でき,人の知覚に似た柔軟性をコンピュータでも実現できることに,人工知能に対する数理的アプローチの妙味を味わっていただけるかも知れない.

 本書の題材が多くの人になじみのある絵であることを考慮して,できるだけやさしく書くことにも努力した.数式の必要なところではいくつかの可能な扱い方の中から最も初等的なものを選んだし,大上段にかまえた議論よりも例による説明を優先させた.実際,大学教養程度の線形代数と幾何の知識があればほとんどの章は読み進めるはずである.ただし5.2節,5.3節,7.4節は離散数学やグラフ理論の考え方に少しは慣れていた方が読み易いであろうし,また,7.5節は内容は難しくないがその意義を理解するためにはアルゴリズムの計算量の知識が必要である.

 また主な章には「不可能物体の描き方」と題する節を設けて,その章で得た知見を復習し応用する機会を作った.エッシャーの時代には創造のために大きな努力を要したであろうこれらの絵が,今や数理の進歩によって誰にでも簡単に描ける(もちろん芸術性をいかに盛り込むかは数理の力の及ぶところではないが)ことをこれらの節でまず体験し楽しんでいただいてから,そのあとで数理解析の部分を辿るという読み方をされてもよい.

 専門用語で言うと,本書は情報工学の一応用分野であるコンピュータビジョンの中の線画解釈とよばれている問題を扱っている―もっとも解釈できない線画の方に注目するという形でいわば裏側からこの問題を眺めているのであるが,絵から立体を読み取る人間の能力は,豊富な経験と知識に基づいた複雑なものであると,常識的には思われがちである.しかし,経験や知識に関するデータなどというわかり難いものを使わないで,透明な数理的手段だけに頼ってもこの能力をコンピュータでまねられるという点も,本書で伝えたいことの一つである.

 画家を志す人はデッサンに多くの時間をかけてものを見る眼を養う.その訓練の中には,本書で明らかにしようとした本当の絵と嘘の絵の区別を体得することも含まれているであろう.数理に頼らなければ一歩も進めない筆者などにとっては,この区別を理屈抜きの経験と感で体得する等ということは気の遠くなるような努力に思われる.もちろん数理という道具は,そのようにして体得される芸術家の彗眼には足元にも及ばないであろう.しかし,絵を描くことは好きだけどデッサンに十分な時間を費やすことができないという人に対しては,本書のような眺め方がその不足を補う次善の手段として微力ながらも役立つのではないかと密かに思っているのだが,いかがなものであろうか.

 Pion Limited(London)には雑誌Perceptionから,Edinburgh University Press(Edinburgh)には論文集Machine InTellogence6(B.Meltzer and D.Michine,eds.)から,MIT Press(Cambridge)には拙著Machine Interpretarion of Line Drawingsから,川崎製鉄?潟Vステム・エレクトロニクス事業部上田岳氏には卒業論文から,それぞれいうつかの図を転載する許可をいただいた.NTTヒューマンインタフェース研究所尺長健氏,千葉大学工学部情報工学科井宮淳氏には,本書の初稿にていねいに目を通していただき,多くの有益な助言をいただいた.本書の執筆を契約してから脱稿までに8年半以上を費してしまった.これは,中程まで書いた原稿が気に入らなくて廃棄してしまうということを2度もやってしまったことなどによるが,いずれにしろ工学的センスから言えば納期不履行の違約金ものである.それにもかかわらず,森北出版?鰍フ森崎満氏,石田昇司氏には快く出版の労をとっていただいた.以上の方々にここに記して謝意を表したい.
 1992年12月                                                著者


目 次


1章 立体現実問題と不可能物体
 1.1 はじめに―無防備に議論を始めると
 1.2 多面体
 1.3 立体・視点・投影面
 1.4 立体実現問題の分類
 1.5 不可能物体

2章 立体実現問題の等価性
 2.1 線画を不変に保つ変換
 2.2 立体実現の自由度の下限

3章 頂点辞書と線画解釈
 3.1 辺の分類
 3.2 頂点辞書
 3.3 頂点辞書を用いた線画の解釈
 3.4 不可能物体の描き方―その1

4章 立体実現問題の解
 4.1 基本的な考え方
 4.2 三面頂点多面体を表すための必要十分条件
 4.3 いくつかの例
 4.4 不可能物体の描き方―その2

5章 誤差に寛容な立体抽出
 5.1 過剰な敏感さ
 5.2 平面アレンジメントの構造的実現可能性
 5.3 主要定理の証明
 5.4 多面体構造の柔軟な抽出
 5.5 不可能物体の描き方―その3

6章 直角多面体の実現問題
 6.1 平行線群と消点
 6.2 視点の推理
 6.3 視点のトリック
 6.4 不可能物体の描き方―その4

7章 立体実現問題の周辺
 7.1 作図の問題の解の一意性
 7.2 相反図形と勾配空間
 7.3 凸多面体とVoronoi図
 7.4 Steinitzの定理
 7.5 ラベル付け問題のNP完全性

参考文献について
参考文献
索引


アップデート:2009/04/08

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